2010年08月08日

1週間を振り返って−209

8月6日「専門家の意見」
 特集ワイドでは、「海」を取り上げていました。その中に次のような記述がありました。
『臨海学校の教育効果を研究する湊川短大(兵庫県三田市)の矢野正講師(臨床教育学)は「海の営みには体に響くものがたくさんあります。はねる魚や潮のにおいに海流。朝夕の潮の満ち引きの差に触れるだけで『地球ってすごい』と思うでしょう。きれい、おもしろいと感じる心をはぐくんだ経験は大人になっても生きてきます」』という部分です。
そのとおりでしょう。でも、教委にいると、こうした専門家の提言は、困った面もあるのです。もし、矢野氏の発言を基に議会で「臨海学校には、今の子供に欠けているものを育むこんな利点がある。教委として、臨海学校を再開するべきではないか」というような質問がされたとしましょう。矢野氏の見解は正論ですし、数少ない専門家の発言という重みもあります。私自身同意したい気持ちもあります。一方で、予算や校内体制、事故発生時の対応など、難しい問題もあります。しかし、教育という分野では、「理想>現実」という雰囲気が強く、そうした現実的な理由では納得を得ることが難しいのです。
 さらに、臨海学校と林間学校の教育上の効果というようなことは数値化して優劣を決めることができるものではありません。ですから、「本市では林間学校を実施しているので臨海学校の実施は考えない」というような言い方では、説得することが難しいのです。
 教委に勤務していたとき、毎日できるだけ多くの情報に接し、たとえそれが教育に直接関係のある記事ではなくても、その時に問題になっていることとは関係がなくても、きちんと整理しておくことが日課となっていました。矢野氏の発言に注意が向いたのもその頃の修正です。矢野氏の発言で、秋の議会では、いくつかの自治体で臨海学校が話題になることでしょう。指導主事はこんなことの繰り返しで力を付けていくのです。
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2010年08月01日

1週間を振り返って−208

7月27日「親の生き様」
 特集ワイドが、『「危うい10代」に親の影』という標題で、10代の子供を巡る事件の背景に迫っていました。その中に次のような部分がありました。『こうした親の多くはモンスターペアレントのように他人に責任を転嫁する。何でも他人が悪いと考える」。それを見て育った子どもは、ささいな事でつまずき、期待に応えられないと感じて行き詰まった時、親が悪い、社会が悪いと周囲のせいにしがちという。「自分が自分で生きるには、邪魔者との関係を切るしかない。だから、追い込まれて殺す」』というものです。
 無意識のうちに、子供は親の姿勢を学んでしまうものだということです。特に、上述した「責任転嫁」の傾向は、学校現場で強く感じることです。交通事故の場合、片方の当事者だけに100%の責任があるということは極めて稀です。訴訟となれば、自分の非を隠し、相手の非を厳しく追及するのは当然の戦術ですが、人生という長い尺度で見た場合、トラブルや失敗を経験した後、「自分の落ち度」や「自分が悪かった点」について考えてみることは絶対に必要です。そこから、次の一歩を踏み出すことができるのです。
 モンスターペアレントの問題では、対応する学校側や教員の負担という視点に目が向きがちですが、実は、子供に悪しき手本を提供してしまうという点にも留意が必要なのです。こうした視点から、モンスターペアレントに反省を促すという手法が開発されることを願いたいものです。こうした面でこそ、カウンセラーを活用すべきだと思います。
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2010年07月28日

1週間を振り返って−207

7月24日「誠意の見せ方」
 東レ経営研究所特別顧問の佐々木常夫氏が、「足を運ぶのが仕事ではない」という標題でコラムを書かれています。佐々木氏が、委員をしている審議会を所管する省庁の職員が、2人で2時間半も費やして氏のオフィスまで説明にくること、氏への講演依頼に5人の担当者が往復3時間もかけてきながら3人は一言も話さなかったことなどを挙げ、『足を運ぶのは相手に誠意を見せる意味もあろうが、それは場合による』と足を運ぶこと自体が目的化している現状を皮肉っています。
 また、毎月訪問してくるが有益な話が少ない銀行マンとめったに来ないが貴重な情報を郵便やメールで送ってくれる営業マンを対置し、『私の欲しいのは的確な情報であって、営業マンに会うことではない』とも書いています。
 難しい問題です。私は、佐々木氏と同じ感覚です。しかし、「電話や手紙で済ませるなんて失礼だ。とにかく顔を見せて、直接説明しろ」という感覚の持ち主がいるのも事実だからです。今、モンスターペアレントへの対処マニュアルを作成している教委が増えていますが、その中でも、「誠意」という言葉がキーワードとして登場することが多いようです。保護者にしろ住民にしろマスコミにしろ、相手がこちら側のどのような態度に「誠意」を感じてくれるかは、分かりません。何回も足を運んだ末、「忙しいのに何回も来られて迷惑した。いつでも会うのが当然と思っているのか」と反発をかうこともありますし、「あんたのところは余程ヒマなんだね」と皮肉られることもあります。それとは逆に、こまめに手紙やメールで進行状況を伝えても「誰が書いているのかも分からない。面と向かっては言いにくいことがあって、会うのが嫌なんじゃないか」と不審をかってしまうこともあります。
 私の対処法は、手紙で住ませたい人のところには足を運び、直接話した方が簡単だと思う人にはまず手紙を届け、その中に「お時間を取っていただけるのであれば」と面談したい旨を書き添えるという方法です。もっと良い方法はあるのでしょうか。

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2010年07月26日

1週間を振り返って−206

7月20日「柱は?」
 同時通訳者田村智子氏が、インタビューを受けていました。その中に次のような言葉がありました。『学校英語が実用的でない、とやり玉に挙がるが、田村さんはこう反論する。「英語力は球体のようにさまざまな要素でできていて、学校文法も、受験英語もみな役立ちます。文法を身に付けないまま英語を勉強するのは、柱を使わずに家を建てるようなものです」』。
 これは、現在進められている小学校への英語教育の導入に対する疑問の提起ととることができるように思います。楽しむ、親しむをキーワードに、小学校の英語授業では、英語で歌を歌ったり、あいさつをしたり、ゲームをしたりすることが主な活動となりそうです。退屈な文法の学習は行われないのです。田村氏の言葉を借りれば、柱のない家造りに貴重な時間を費やすことになるのです。
 私が勤務していた教委では、中学校の英語担当教員にアンケート調査を実施したことがあります。その結果、多くの英語担当教員が、小学校における「お遊び」的な英語学習は中学校での英語学習にとってマイナスという考えをもっていることが分かりました。新鮮さや新しいものへの好奇心が薄れてしまうマイナスの方が大きいと見たのです。
 英語のプロや英語教育のプロがもっているこうした疑問や不安に答えぬまま、拙速に導入が進められているのでなければよいのですが。

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2010年07月25日

1週間を振り返って−205

7月20日「文系の復権」
 『わが子に「理系進学」を希望する父親は、文系進学を望む父親より4倍多いことが、化学メーカー「クラレ」の調査で分かった』のだそうです。この結果について、記事では、『日本の政治や経済に閉塞感が漂う中「子どもには論理力や専門性を武器に生きていってほしいという親心の表れではないか」』という分析を掲載していました。
 また、記事には、『自身が子どものころ、研究者や科学者になりたいと思ったことがある父親は48%。あこがれた科学者は日本人では湯川秀樹や野口英世、外国人ではアインシュタイン、エジソンなどの名前が挙がった』とも書かれていました。
 私は、文系の人間です。指導主事としても、国語と社会科の研究授業党の講師として呼ばれることがほとんどでした。それだけに複雑な思いです。この記事からは、文系では、論理力は育たず、専門性と呼べるほどの知識や能力は身に付かないと思われているということが分かります。また、我が国の教育の今後の姿について語られるときにも、国際競争力の維持のために理数系を強化するという意見が主流となっています。当然のこととして、文系の比重は軽くなります。
 それでもまだ、語学系はましです。英語はますます重視されていきますし、コミュニケーション能力の向上という方針がある以上、国語科における聞く話す能力の伸長には力が注がれるでしょう。社会科はどうなってしまうのでしょうか。
 私の愛する社会科は、ますます軽視されていくような気がします。地理や歴史は「暗記教科」というレッテルが貼られ、詰め込み教育の代表のように言われています。それは誤解であるにもかかわらず。
 私は、授業の下手な教員でしたが、それでも、社会科の授業では、問題解決型の学習を指向し、考えさせる問題設定、異なる意見の尊重、オープンエンド型の展開などを取り入れてきました。私の授業は拙いものでしたが、教員時代、指導主事時代を通して300回以上は見てきた「研究授業」は、どれも「暗記」や「詰め込み」ではない授業であり、論理性を培うものでした。我が国や郷土の歴史や文化を知ることなく国際人にはなれませんし、過去から現在に至る人々の営みを通して人間というものを理解することなしに、人を、組織を動かすことはできません。文系復興は、今こそ必要なのです。

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2010年07月23日

1週間を振り返って−204

7月18日「自分のことだけ」
 「ぼうさい甲子園」の特集の中で、京大教授の矢守克也氏が、学校における防災教育について語られています。その中に次のような言葉がありました。『防災はすぐに目に見える成果が出るものではないので、成果主義に陥ると「やりがいがない」と考えがちだ』というものです。
 確かにその通りです。では、他の「○○教育」については事情が異なるのでしょうか。租税教育についてはどうでしょうか。金融教育はどうでしょうか。福祉教育は、異文化理解教育は、同和教育は、消費者教育は、……。どれも同じです。いずれも、ペーパーテストで知識を測ることで成果を見る性格のものではありません。また、子供にとって、すぐに日常の生活態度に反映させる場が乏しかったり、思いはあっても子供の立場では行動化が難しかったりするのです。つまり、守矢氏が指摘する「すぐに成果が出るものではない」のは防災教育に限った特徴ではないのです。
 一方で、成果主義についてはどうでしょうか。教科の学習については、学力調査などの方法で、間接的に教員の指導力が数値化されて示されます。何度も書いてきたとおり、学力調査の結果は、教員の指導力が関与する割合は大きくはないのですが、そのことを理解しない「世間」によって、教員評価に転用され、教員にとってはプレッシャーとなっている現状があります。さらに、数十ある「○○教育」についても、その成果が数値化され、教員の指導力と関係があるものとして示されるようになれば、教員は、いくら頑張っても追いつくことができないという徒労感に苛まれることになるでしょう。
 誤解のないように言っておきますが、防災教育自体に価値がないと言っているのではありません。それぞれの分野の専門家が、善意から主張する「○○教育」の学校への導入について、各分野の専門家が要求団体、圧力団体と化してしまうことが問題であり、それを放置している教育行政のあり方が問題だと言っているのです。文部科学省が、要求に押されるのではなく主体的に必要性や適時性を判断し、学校の混乱を最小限度に収める努力をすることが臨まれます。
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2010年07月20日

1週間を振り返って−203

7月16日「英語と日本語」
 「英語公用語化の企業戦略 日本語なしで大丈夫?」という標題の下、楽天とユニクロが、平成24年から社内の公用語を英語にすることについて特集が組まれました。その中で、東京外国語大の鶴田知佳子教授が、『「英語を使ったがために誤解が生まれたり、活発に議論ができなくなったりという心配はないのか。そこに目をつぶってもやる価値があるかどうかということです」「言葉を変えるということは、考え方や文化など背景にあるものも変えてしまうということ。道具を取り換えるようにはいかない」』とマイナス面を指摘しています。
また、記者も、『遠回しな表現の多い日本語に比べると、英語ははるかに単刀直入だ。英語への通訳の際、日本語の文ではぼかされている語を明示的に補うことも多い、と鶴田教授も言う。時に感情的なやり取りを伴う職場の会話がすべて英語になることで何が起きるのか。ビジネスの中身だけでなく、職場の人間関係にも変化をもたらすのではないか』と指摘しています。
 私は、企業経営のことについては何も分かりません。ただ、言葉のもつ「特性」という点について考えさせられました。英語と日本語に「遠回し」と「単刀直入」という違いがあるように、同じ日本語でも、子供と教員が使う言葉には違いがあると思うのです。
 教員、それも年配であればあるほど、「遠回し」表現が多くなります。一方、現代っ子の使う日本語の特徴は、より英語的に「単刀直入」なのです。その結果、教員が子供に注意したり、説得したりするために、さまざまなたとえや比喩を使って話した後、「先生、それで結局何が言いたいわけ?」と聞き返されてしまうような場面が増えているように思うのです。
 言葉の背後には文化や考え方がある、という鶴田教授の指摘を当てはめれば、教員と子供の間には、「敬語が使えない」などと言った表面的なことだけではなく、もっと大きな考え方の違いが生まれているのではないか、という懸念が湧いてきます。もちろん、いつの時代にも、大人と子供、若者と壮年者の間にはギャップがありました。しかし、近年のそれは、従来とは比較にならないくらい大きなものになっているのです。
 そして、そうした差異は、教員間にも存在します。新任の教員たちに、生活指導のあり方について尋ねたとき、彼らのほとんどが「望ましくないと思っても、校則で禁止していないことであれば、無理矢理やめさせることはできない」という考えをもっていて、驚いたことがあります。彼らの考える生活指導が、根気強い説得や教員が「背中で教える」感化ではなく、警察のような取り締まりと罰の論理に基づくイメージであることに驚いたのです。
 学校は、組織として教育活動を行わなければなりません。それには、教員間の共通理解が不可欠です。でもそこに言葉の断絶があるとしたら、深刻な事態になります。今、小学校から、英語教育が導入されています。数学や理科などについては、英語で授業をすることを特色にしている私立学校もあります。そのうち、教員同士も校内では英語を公用語とするなんていう学校が現れないとも限りません。そこでは、記者が懸念するように、教員間の人間関係はどのようになっていくのか、共通理解が図られるのか、不安になります。
教育改革や学校の個性化を勘違いした、こんな学校が現れないことを願いたいものです。

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2010年07月14日

1週間を振り返って−202

7月9日「マイスクール」
 編集委員網谷隆司郎氏が「晴れのちちょっとヒマ」の中で次のようなことを書かれていました。『「観光客にウイスキー造りを体験させたらどうか。世界に一つしかない自分のウイスキーができたら、誰でもそれを宝にするはずだ」と真っ赤な顔で理屈を吐いた。〜中略〜バブル全盛時代だった。「どんなに高価な酒よりも自分が製造に参加した酒こそが世界一の美酒だ!」という理屈が、その後、ニッカの「マイウイスキー・キャンペーン」として結実した』。
 自分の思いが反映した自分だけのもの、たしかに魅力的かもしれません。教育に当てはめてみると、自分の思いや願い、自分の個性に合わせた学校や授業、しかも自分の意見を活かして計画実施される授業、そんな授業をしてくれる学校、まさに「マイスクール」です。
 そもそも、現在の学校は「個を尊重した教育」を掲げています。教育は一人一人を活かすべきものなのです。つまり、一人一人が自分に合わせた内容を、自分に合った方法で、自分なりのペースで学ぶ、という形の「マイスクール」が究極の理想の学校であるということになります。とはいえ、実際にそこまでは、無理だということは誰もが理解しています。せいぜい、画一化を避け、多様な選択肢を提供してくれるような学校が望ましいことになります。
 一方で、公立学校は、国民の税金で運営される公的な機関であり、納税者である保護者と子供は、学校に対して自分にあった教育を提供するように要求する権利があります。個々の要求は多様なものになるので、その実現のためには、都道府県や市町村といった広範囲の数多くの学校に共通の施策で臨むのではなく、学校ごとに学校理事会のようなものを設け、きめ細かく教育課程を編成していくことが望ましいことになります。
 以上のような発想で、教委ではなく、保護者や地域住民が自らの手で学校の教育内容や方法を決めていこうというのが、学校理事会制度の趣旨なのでしょう。
 しかし、学校とウイスキーは違います。味覚や嗜好は感覚的なものであり、客観性をもちません。一方、学校における教育内容は、個人の満足でこと足れりとはなりません。また、ウイスキーなら、純粋に自分だけで熟成させることができますが、教育は、他者との関わりの中で行われる営みです。個人が自分の興味関心だけに基づいて活動することは不可能ですし、教育効果を減じることになります。
 教育改革と称して、学校の個性化、教育内容の多様化を主張する人の中に、「マイウイスキー・キャンペーン」のような過激な個性化を唱える人がいます。それは思想ではあっても、「策」ではありません。

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2010年07月10日

1週間を振り返って−201

7月7日「正解は…」
 夕刊に「私、専業主婦になりたい」という見出しの特集が組まれました。記事によれば、『国立社会保障・人口問題研究所が既婚女性を対象にした「第4回全国家庭動向調査」では、「夫は外で働き、妻は主婦業に専念すべきだ」と考える既婚女性の割合が、前回よりも3.9ポイント高い45%となった。93年の調査開始以来、初めて増加に転じた。特に顕著なのは29歳以下の増加で、前回よりも12.2ポイントも高い47.9%に達した』ということです
 こうした現状を基に、適切な職業観を身に付けさせることをねらいとする「キャリア教育」について考えたとき、どのような結論が導き出されるのでしょうか。
 勤労は国民の義務なのですから、すべての健康な成人は働くべきであるという考え方があります。こうした立場から、「最近の若い女性は甘い。自覚が足りない」と非難し、より一層の「キャリア教育」推進が求められるような気がしないでもありません。しかし、勤労とは、主婦の仕事は含まれないものなのでしょうか。
また、わが国においては、長期的に人口減が続くとされています。労働人口が減ってしまうと経済が縮小してしまうことから、それを避け今後も一定の経済成長を維持し、福祉や社会保障といった社会システムを維持していくためには、女性の就業を増やす必要があり、そのためにも、専業主婦志向から意識転換を図っていかなければならないという立場があります。この立場からも、「キャリア教育」推進が叫ばれそうです。
さらに、専業主婦志向の根底には、男女の性別により役割を固定してみる古い価値観があり、男女差別につながるこうした考え方は正していかなければならないという発想もありそうです。ただし、記事によると『話を聞いた女性のほとんどは「自宅で趣味の教室を開きたい」(20歳、学生)、「友人との交流やスポーツを楽しみたい」(22歳、総合商社勤務)という。趣味を通して社会とつながり、妻や母というより、一人の女性として輝きたいという思いが強い』ということで、女性は家に、という発想ではないようですが。
 だらだらと当たり前のことを書いてきたのは、私は、「キャリア教育」にしろ、どんな「○○教育」にしろ、その根底には、「あるべき生き方」が想定されていなければならないと考えているからです。例えば、子供の健全な成長ということについて考えてみても、両親が働く姿を見せることが大切という意見もあれば、幼少期は母親が側にいることが重要という考え方もあります。また、高齢者となったとき、働けるうちは働いていることが幸せなのだという考え方と、いつまでも働かなければならないなんて不幸だ、老後は庭のバラの手入れでもして悠々と暮らしたいという人生観もあります。
 もちろん、こうした選択はどちらが正しいというわけではなく、個人が自分の価値観に基づき行きたいように生きることができるというのが望ましいに決まっています。ですから、「キャリア教育」は、本来「どちらでもよいから、現実をよく知り、その上で自分自身で判断しよう」という教育でなければならないはずです。つまり、「キャリア教育」で大切なことは、自分を知り、社会を知り、自分で決め、決めたことを実現するため全力を尽くすということの大切さを理解させることであるはずなのです。しかしながら現状は、女性でも高齢者でも働くことがよいことで、働かないことはよくないことという価値観で教育が行われているように思えてならないのです。なお、ここでいう「働く」とは、「カネを稼ぐ」という意味です。
 「私は結婚したら、家庭にいて、子供を育てながら、友達を呼んでパーティーをしたり、テニスやゴルフをしたりして過ごしたい」という生徒の発言を否定しない「キャリア教育」になっているでしょうか。そもそもそれでは、「キャリア教育」というものは成り立たないのでしょうか。

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2010年05月31日

1週間を振り返って−200

5月26日「3つのこだわり」
 仏文学者鹿島茂氏が書かれている「引用句辞典」、今回はデカルトの「方法序説」を取り上げていました。鹿島氏の解説によると、デカルトは『「よく判断し、真なるものを偽なるものから分かつところの能力」であるところの良識は、この世の中で最も公平に配分されている』といっているのだそうです。そのことを踏まえ、鹿島氏は、『いまこそ我が国で問われなくてはならないのは、最も平等に与えられているはずの良識の使い方を教えることなく、知識だけを詰め込もうとする日本の教育の本質なのである』としています。
 鹿島氏のこの考え方について、私がひっかかったのは、@「最も平等に与えられている」、A「使い方を教える」、B「知識だけを教え込もう」の3点です。
 @は、「どの子供も同じ可能性をもっている」という迷信につながる考え方だと考えます。こうした迷信から出発する教育論議は、スタートが間違っているのですから、当然の結果として間違った結論に到達してしまうのではないでしょうか。いうまでもなく、人の能力は千差万別です。ある分野に限っていえば、天才もいればカスもいるのです。
 Aは、思考の仕方も教員が子供に「教え込む」ものであるということを意味しています。もちろん、この場合の「教え込む」は、意味も分からないままとにかく覚えろ、ということではありません。しかし、教員(教える人)から子供(教わる人)へという伝達の流れがあるという立場であり、先人の長い試行錯誤の結果得られた最良と思われる思考の仕方(複数あり得る)というものがあるという立場であることはたしかです。そこには、子供は本来学ぼうとする主体的な存在であり教員はその学びの補助をすればよいというような発想とは異なっています。私はこうした考え方に賛成です。鹿島氏には、是非こうした視点から「教えることの重要さ」を強調する発言を続けて欲しいものです。
 Bは、知識だけを教え込むことはよくないが、いけないのは「知識だけ」だからであるということです。そうではなく、まず知識を教え込み、その知識を使って思考することを教え込むという営みは望ましいことだという考え方です。知識を軽視する考え方とはハッキリ違うということです。知識を軽視しないという意味では、私はこの考え方にも賛成です。ゆとり教育が曲解されたのは、ゆとり=知識軽視という誤解が根底にありました。鹿島氏には、考えるための知識の大切さをきちんと訴え続けて欲しいものです。
 私には、我が国の学校教育全体について論じるだけの知識はありませんが、小学校についてならば、現状を理解しているつもりです。小学校では、鹿島氏の指摘はそのまますべてはあてはまりません。@については、多くの教員が本音では、天才とカスの存在を認識しています。Aについては、教えることに躊躇いを覚えている教員が多いのが現状です。Bについては、思考の仕方を教えようとしてはいるのですがその前提となる知識の定着が不十分なために成果をあげられないというところです。
 @はともかく、AとBについては、鹿島氏に期待したいところです。
 
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